K氏は駅の改札口を抜けると、コートの襟を立てて顔を隠した。
誰かに見られたらバツが悪い、と思った。
しかし考えてみれば、そう恥ずかしがることもない。
K氏が家を空けたのはたった三日間だけ。
だれも蒸発しようと思ったことなど知るはずがない。
K氏は出張にでも出たように家を留守にし、そしていつものように帰ってきたのだ。
ことの起こりはK氏の性格が優柔不断だったからである。
K氏は四十三歳。
勤務先は中どころの保険会社で、ポストは課長補佐だ。
三日前の朝、K氏が出社すると部長室に来るように呼ばれた。
人事異動をひかえ昇任の噂が流れていた。
「キミを課長に推薦したんだが…」
と、部長は金ぶちの眼鏡の下からK氏を凝視し、おごそかな声で続けた。
「遺憾ながら今期も見送りになった。ま、次の機会を待ってくれたまえ。気掛かりのことにキミは管理者としていささか決断力に欠けるという評価がある。私もそう思う。その点、今後くれぐれも気をつけてくれたまえ」
K氏はあたまから血の気が引いて行くのを覚えた。
そういう評価が部長会議で語られるようになっているのか。
そんな評判があるようではしばらく課長になれないだろう。
部下たちが "万年補佐" と呼んで笑っているのが耳の奥に響いた。
思い返してみれば、部長がそう言うのもむりがない。
早い話が先日配下の非常勤職員の首切りを命じられたときのことだ。
K氏は課長の厳命を受けながら、非常勤の雇員たちの泣き言を聞くと気の毒になり、スゴスゴと課長のところへ戻って彼等の窮状を訴えた。
課長は苦い顔をしながら、この不況時にはまず人件費の節減が急務であり、非常勤の整理は会社の規定方針であることを繰り返した。
言われてみれば、その通り。
会社は非常勤職員に対してまで不景気のときに堅く義理を立てる必要はない。
K氏が課長の説明を伝えると、それを立ち聞きしていた課員の中から、非常勤職員は低い賃金で充分それに見あうだけの仕事をしているのだがら、こんなときこそ彼等をうまく使うほうがいいという意見が起きた。
みんなK氏の優柔不断ぶりをよく知っているから勝手気ままなことを言うのである。
K氏はご丁寧にもその意見を課長のもとへ持って行った。
課長は眺めていた書類で机を叩き、返事もせずに席を立った。
K氏がウロチョロしているうちに労働組合がこの話を聞きつけ、たちまちゴタゴタが始まった。
こんなことでは上層部の覚えがめでたくなるはずはない。
決断はいつも迅速でなければいけないし、いったん下した決断はめったなことで変更してはいけない。
これは管理者として絶対忘れてはならない鉄則だ。
K氏もよく知っているつもりなのだが、いざその時になると、色々な意見に耳を奪われ右往左往してしまう。
サラリーマンとして大成はおろか課長になるのさえおぼつかなかった。
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その日はたまたま月給日だった。
月給袋を鞄に入れ会社の外に出たとたん、K氏は矢も盾もなくどこか遠いところへ行きたくなった。
気がつくと足は家と反対の方へ向かっていた。
「女房は心配するだろうな。月給がないと困るだろうな」
K氏は妻宛てに電報を打った。
"スコシタビヲスル シンパイスルナ カイシャヘハ ビョウキダトツタエテクレ"
その翌日、月給袋から半分だけ抜いて残りは現金書留で家へ送った。
しばらくは家に帰らないつもりだった。
しかしK氏の蒸発旅行もそう長くは続かなかった。
気掛かりなことが多すぎてとても、蒸発どころではない。
四日目の夜にはもう、よく見知った家路をトボトボと急いでいた。
坂道をおりると彼の家はいつものようにそこにあった。
台所の灯は消えていたが、リビングルームと玄関の窓は明るい。
K氏はドアに近づいて中の様子をうかがった。
ドアを押すのが怖いような照れくさいような妙な気分である。
ドアの中から妻の声が聞こえる。
だれかと電話で話しているらしい。
K氏は聞き耳をたてた。
話の様子からして相手は妻の姉だろう。
「蒸発?ああ、そうかもしれないけど…」
少し沈黙が続いた。
相手がなにか言ってるらしいが、それは聞こえない。
「……課長補佐って上下の板ばさみになるでしょう。あの人、いつもイジイジ悩むタチなのよ。断固自分の方針を決めてそれをトコトン押し倒すことができないのね」
また言葉が途切れ、ふたたび妻の声になった。
「でも、私、心配してないの。どうせ蒸発だって断固続けられっこないわ」
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